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さまよう羊のように 8-6

†††8-6

「・・・・・・!」
そこにはさるぐつわを噛まされ、手足を縛られたナッツがいた。
ナッツは目が慣れていないためかすぐには戸を開けたのがココだとは気づかなかった。
ココはなんとか腹の奥から湧き上がる何とも言い難い思いを声に出さずに押し殺すことができた。

パンッ!パパンッ!

クラッカーの弾けるようなやや湿気た景気の悪い音が廊下の方から聞こえた。
ココが廊下の方を見ると、ギャットは既に拳銃で応戦を始めていた。
ギャットが撃つのを中断して廊下の出口に身を潜め、すぐにでも撃てるような位置に陣取りつつ、新しいマガジンをポケットから取り出した。そしてこちらを見やり、ココを指さした。

・・・・・・自分のことは何とかしろ。

ココはなんとなくそう言われているように感じた。
ココはポケットから小型のナイフを取りだし、ナッツのさるぐつわを切ろうとして、一度口に指を当てた。
・・・・・・騒ぐなよ。
ナッツがこっくりとうなずく。それを確認してココはナッツのさるぐつわを切った。
ふーっと静かに息を吐き出し、肩を一度ごきり、と鳴らしてからナッツは後ろを向いた。後ろ手に縛られているのでそっちも切ってくれ、ということか。
ココは腕の縄を切り、ナッツの足を縛っている縄も続いて切った。
ナッツは立ち上がり、クローゼットから、長い束縛から解き放たれた。

†††

さまよう羊のように 8-5

†††8-5

がたっ、という小さな物音にココとギャットは身を堅くした。

・・・・・・何の音だ!?
無言でココとギャットは視線を交わしつつ同時に拳銃を構えた。
もう物音はしない。

・・・・・・もっと奥へ行け。

ギャットがやや部屋の奥にいるココに指で振り返らずに指示した。視線は部屋と廊下の境目に固定されたままだ。
ココは指示されたとおり、できるだけ物音を立てないように奥へ進んだ。
すると部屋の手前にいたときには気付かなかったクローゼットが見えた。
ココにも確信があったわけではない。ただなんとなく予感があった、というだけだ。
ココはクローゼットの戸を開けた。

†††

さまよう羊のように 8-4

†††8-4

「これは・・・・・・?」
あの男を拷問して吐かせたホテルの個室には誰もいなかった。
「どういうことだ・・・・・・。ガセだったのか・・・・・・?」
ギャットが部屋を歩き回り、部屋に置かれている机の引き出しを開ける。手がかりでも探しているのだろう。
「なあ、早く出た方がいいんじゃないのか?」
ギャットが唇を噛んで悔しそうな表情を見せながら部屋を見回す。時間があれば隅々まで調べたいのだろう。
「・・・・・・そうだな、早く出よう」

・・・・・・がたっ

そのとき小さな物音がした。

†††

さまよう羊のように 8-3

†††8-3

ギャットがゆっくりとドアノブを回し、ドアそうっとを開ける。
それに合わせてココが拳銃を下に向けて中に入る。
部屋に入ったところの廊下には誰もいなかった。誰かがドアの開いた音に気づいた様子もない。
続いてギャットがゆっくりと後ろから入ってくる。
ギャットがドアを大きく開け放ち、閉まらないようにする。音を立てないためだ。

ココとギャットが前後を入れ替える。やはり本職の人間が先行すべきだろう。
ギャットがじりじりと音もなく廊下を進み、やがて角にたどり着いた。
その先は部屋だ。普通なら部屋には行って三、四歩のところで右に曲がり、大部屋に入るものだが。
ココにはその角が生死の境にさえ思えた。
ギャットも同じようなことを考えていたのだろう。でなければ角で一瞬立ち止まり銃を構え直した意味がわからない。

ギャットは意を決したように短く息を吸い込み、バッ、と身を大部屋にさらし、同時に大部屋にいるであろう人間に銃を向けた。
それをココは廊下で銃を構えて見ていた。
しかし、ギャットは銃を構えたまま微動だにせず、その表情は堅いものから徐々に崩れて完全に困惑したものへと変わった。
挙げ句、ココに顔を向けた。
「おい、これはどうなってるんだ?」
ココは角からひょい、と頭を出して見た。
大部屋には誰もいなかった。

†††

さまよう羊のように 8-2

†††8-2

「なに?チャックがいない?」
「はい、タームさん」
部下がおずおずと申し訳なさそうに言う。タームの部屋に入った連中は大抵この無表情に気圧されてしまう。
「何度電話しても出なくって・・・・・・」
「あいつは今何の仕事をしてた?」
部下の歯切れの悪い報告を断ち切るように質問を出す。
「は、はい。えーと、クスリの売買を何件かと・・・・・・引っ張ってきた奴の管理ですね」
部下はやや上を向いて一つ一つ思い出すように答える。
「・・・・・・そうか。代わりの担当の担当を呼んでくれ」
「はい、わかりました」
部下は礼をしながらやはりおずおずと部屋から出て行った。

†††

さまよう羊のように 8-1

†††8-1

半年前、ココはフォン達の前から姿を消した。
外国人で目立つ彼がいなければマフィアも彼女たちを見つけることはできないだろう、と思ってのことだった。
実際、その通りに今度はフォン達はマフィアに見つかることなく、町から脱出することができた。

それではココはどうなったのか?
たった一人だけマフィアが彼を探し回っている町に残り、何をしようと言うのか?
答えは簡単、彼はナッツを探していたのだ。

マフィアに追われる人間が逆にマフィアを独りで追い回す、などという芸当が一般人にできるはずもない。
そう、独りでは。

彼が以前、大使館に電話をしたとき(二度目の脱出の直前)、ココはスタッフと相談していた。
その結果、フォン、シャーミラ、テト、イプ、ココの五人ではなく、ココを除いた四人で脱出を試みるべきだ、という結論に至った。
しかし、それではココがあまりに無防備になってしまう。
そこでギャットの登場である。
彼は現役の警察官である。やや素行が悪く、この時期に停職を食らっていた。
以前に大使館と関わって(あまりいいことではない)連絡が取れた彼はこちら側にとって正にうってつけの人物だった、というわけだ。

†††

さまよう羊のように7.0

†††

「まだ言わないのか」
「誰がてめえらなんかに・・・・・・」
ごすっという鈍い音がした。
「言わなければ延々とこれが続くぞ」
「大したことねぇよ、こんなもん」
「・・・・・・そうか。俺も少々飽きてきたところだ。ちょっと趣向を変えるか」
そういうと男はその部屋の暗がりへ一度入り、すぐにまた出てきた。
手には何か妙な道具を持っている。
「・・・・・・気になるか?」
男はイスに縛られた男の目がその道具に吸い寄せられているのを目ざとく発見して、にやりと不気味に笑い、その道具を少し持ち上げてそう言った。
「・・・・・・いや」
しかし、縛られた男の覇気は少々なりをひそめたようだ。
「・・・・・・ほどほどにしとけよ。ギャット」
部屋の暗がりの中から声がする。
「わかってるよ。話ができる程度には手加減する」
ギャットと呼ばれた男は道具をひらひらと振って暗がりの男に返事をする。
「いや、それはいい。書ければ問題ない。・・・・・・まだ書けるよな?」
「ああ、問題ない」
「じゃあ、いい。悲鳴をあまり出させるなよ。場所がバレるからな」
「・・・・・・喉を締め付けながらやればいいかな?声も出ないかもよ」
「それでいいんじゃないか?」
じゃあそれで、と言ってギャットと呼ばれた男が縛られた男を振り返ると男は、
「わかった!吐く!しゃべるから!どうか・・・・・・」
「・・・・・・何を?」
暗がりの男が静かに尋ねる。その問いかけに情は微塵も無い。
「や、奴の居場所だ!さっきから何度も聞いてるだろ!」
「わかった。言ってみろ」
ギャットが少し縛られた男から距離を取る。
「イゴイのホテル、『金科玉条』。その五階だ」
「・・・・・・本当に?」
暗がりから声が響く。
「本当だ」
「・・・・・・ギャット。そいつの舌を抜け」
「了解」
「な、・・・・・・なんで・・・・・・?」
縛られた男は絶句した。
「理由はお前一番よくわかってるだろ?・・・・・・ギャット、ロープはどこにある?」
「その机の上にあるだろ?右端だ。焼きゴテの下」
「ああ、あったあった」
暗がりから男が姿を現す。ロープを持って表情無く縛られた男に近づく。
「な、なんでだ!お、俺はちゃんと居場所を・・・・・・」
「嘘だろ?」
暗がりから現れた男は刃物のような短い言葉を吐いた。
「う、嘘じゃ・・・・・・」
縛られた男がそう言う間にも暗がりから現れた男は歩みを止めることなく縛られた男の後ろに回り込む。ロープを持って。
「ギャット、顎を抑えなくても大丈夫か?」
「大丈夫だろ、これを口に入れちまえば」
ギャットはそう言って大きなハサミのような形状の鉄の塊を揺らす。
「じゃあ、やってくれ」
「わかった!わかった!話す!話す!話すからやめてくれ!」
縛られた男は金切り声を上げた。
「うるさい」
しかし、ロープを持った男もギャットと呼ばれた男も手を止めない。ぐりぐりと力づくで作業を進めていく。
「ア、アルカッロの!ホテル『一挙両得』!そこの四階!四〇三号室!」
たまらず縛られた男はそう叫んだ。

†††

「やっとだな」
ギャットは部屋の外に出て煙草を吸い始めた男に言った。暗がりにいた男だ。
「ああ」
暗がりの男は煙をふーっと吐いて応えた。
「あいつどうする?」
ギャットが部屋を指さす。部屋の中にいる男のことを言っているのだ。
「ホテルを確認するまでは放っておけばいい。どうせ何もできない」
「ん。了解」
そう返事をしてギャットは立ち上がった。部屋の中の男を移動させるのだろう。再びドアに進もうとした。
「ありがとよ、ここまで付き合ってくれて」
暗がりの男はドアノブをつかんだままのギャットへそうつぶやいた。目はむこうを向いている。ギャットはその男の様子に喉の奥からクックッと笑い声を出した。
「お前こそお疲れさま。ココ」
そう言ってギャットは部屋の中へ消えた。

†††

「ここだな」
ギャットがホテルの前で車を停める。
夜の闇に車のランプが吸い込まれていく。すぐ先さえ何も見えない。
「ああ」
二人は車から降りてホテルに向かう。
安いホテルだ。ホテルと言うよりもただの宿。ホールは狭く、汚い。
そのままエレベーターに乗ろうとするとボーイが二人を止めた。
「すみません、お客様以外はお通しできません」
妙なところは律儀だった。だったら掃除を丁寧にしろと思わなくもない。
「そうか・・・・・・。悪い悪い、うっかりしてたよ」
ギャットは少し迷ってボーイに返事をし、チェックインに受付に向かった。彼ならばその気になればそのまま進めるのだが、あまり目立つのもどうかと思ったのだろう。
「すまん、待たせた」
「構わない」

†††

「四〇三号室だったか・・・・・・」
エレベーターで上昇しているときにココがつぶやく。
「また罠かな?」
「さあな」
エレベーターが四階に着く。二人は腰に帯びた拳銃を確認する。
エレベーターの扉が開く。

・・・・・・マフィアはいない。

「ふう」
ココは思わず詰めていた息を吐き出した。
二人はエレベーターの外へ足を踏み出していく。
四〇三号室の前に立った。
二人とも実の所生きた心地がしなかった。
今にも目の前の扉から散弾銃や機関銃の弾丸を喰らうかもしれない。
隣室の扉からマフィアがわらわらと出てきて一斉射撃されるかもしれない。
中に入った途端、撃ち殺されるかもしれない。
中に入った途端、地雷式のトラップで吹っ飛ぶかもしれない。

ギャットがココに目配せする。
ココがうなずき拳銃をドアに向けて構えた。
ギャットはドアノブをつかみ、回した。

†††

さまよう羊のように6.0

大使館に向かうための準備が始まった。
まずココは大使館に連絡することにした。ナッツが何も言わなかったので連絡しなかったがよく考えると妙な話だ。一番頼りになりそうなところに連絡せずに自分達だけで計画を立てていたのだから。

大使館に電話をしてココ達は驚くことになる。

何回目かのコールでつながった。
<はい、こちら***大使館です>
<もしもし、私は○○○という者です>
ココは本名で○○○と名乗った。
「○○○さん?」
電話の相手は急にイントネーションを戻した。まあ、同じ国の者だとわかったので当然かと思っていると、
「△△△さんはご存じですか?」
ココはぎょっとした。△△△というのはナッツの本名だ。
「なぜ△△△の名前が・・・・・・?」
「彼は先日こちらに連絡をしてきました。その際にあらかたの事情は把握しています」
「え・・・・・・?」
ココは軽いパニックに陥った。理解の範疇を越えている。
「今から説明しますね」
どうやらナッツはココが助けを求めるとすぐに大使館に連絡したらしい。その時に警察に捕まりそうになったという話もしたそうだ。
  「警察の中にもマフィアの手先がいると?」
  「あいつの話ではそうみたいです。女の子を捕まえようとしたとか」
大使館も警察に連絡することはなかった。どの程度警察にマフィアの毒が回っているのかわからなかったからだ。つまり、警察全体がグル、という可能性が捨てきれなかったということだ。
「そこで△△△さんと私たちは協力することにしたんです」
ナッツは大使館に一緒に協力して警察の闇とマフィアを丸ごと掘り出そう、と持ちかけたらしい。
「驚きましたよ。現実にそんなこと言う人がいるなんてね。こちらのスタッフも最初はまあ、その真に受けていなかった、のですが・・・・・・説得されちゃいました」
「・・・・・・さすがあいつですね」
「何者ですか、彼は?」
「一般人ですよ。ただのね。・・・・・・今、あいつはマフィアのところです」
「え?」
「捕まったんです。貫通線の駅で・・・・・・」
「ちょっと待ってください」
電話の向こうでスタッフが集まる気配がした。
「・・・・・・はい、今スピーカーにしました。何があったんですか?」
「貫通線に乗って彼の家に逃げ込もうとしていたのですが、乗り込む前に彼が発砲したんです」
「彼が・・・・・・ですか?」
「はい。私たちも目を疑いました」
「原因は?」
「推測・・・・・・ですが、変装がばれたんだと思います」
「ふむ・・・・・・。まあ、考えても仕方ないでしょうね」
今までとは違うスタッフの声だ。低くて、ぶっちゃけ偉そうな声だ。
「きっと彼ならなんとかすると思っていたのですが、仕方ありませんね」
これを聞いてココは少し腹が立った。
「・・・・・・それで、これからどうしますか?」
声にトゲが立ってしまった。
「そうですね・・・・・・。こちらに来ることは可能ですか?」
「どうすれば行けますか?」
「地図を用意してください」
ココはイプに地図を持ってくるように指示した。

†††

ココは電話を切った。
<どうなったの?>
シャーミラガいてもたってもいられない、という声でココに尋ねた。
ココは地図を指でなぞりつつ、
<このルートで大使館まで行く>
と返事した。
<マフィアは?大丈夫なのか?>
イプが心配そうな声を出す。
<そうだ・・・・・・。イプも一緒に行ってもらうよ>
イプは目を見開いたが、すぐに納得した顔をした。ナッツが捕まったのだ。ナッツがここを吐かないとも限らない。
<・・・・・・わかった>
イプはあえて確認したりはしなかった。
ココは横目でシャーミラを見つつ、先ほどのイプの問いに答える。
<マフィアは心配ないそうだ。見張りが少ないルートなんだってさ>
そう聞いてイプもシャーミラも考え込む様子を見せたが最後には、仕方ないか、といった風にココに賛同した。
ただフォンはじっとココを見つめていた。

†††

『貫通線』とはまた別の線の駅にココ、フォン、シャーミとテト、イプが到着した。マフィアの目をかいくぐってこの駅まで来たことは言うまでもない。
<ふう、なんとかここまでは来れたか>
そう言ったのはココだ。貫通線と比べて人があまりいない駅だった。だからといって貫通線の時よりも楽に乗り込めるわけではない。見張りの数は少ないが乗客の人数も少ないので見張りの目に必ずさらされるだろう。
今回はシャーミラ、イプ、フォン、テトが『親子』、ココが緊急事態に対応する役になった。前回ばれたのはきっとココが外国人だから目立ったためだとココが自らその役を買って出たのだ。最優先はフォンなのだ。
シャーミラ、とテト、が一人で駅の中に切符を買いに行く。イプとフォンは日なたで、ココは物陰でそれを待つ。シャーミラは『夫』と『娘』に切符を笑顔で渡し、残り一枚をひらりと地面に落とした。そのまま駅の中に入っていく。
後からそれをココが拾う手はずになっていた。
ココは地面に落ちた切符に張り付かせていた視線を引き剥がし、歩き出した。

†††

「ココは?」
一番最初に口を開いたのはシャーミラだった。客車に無事に乗り込んでからしばらく経ってもココが現れない。
そんなシャーミラと同じくフォンも目を不安げに揺らす。今までずっと一緒にいてくれた人がいないのだ。当然だろう。
イプはそんな二人とは違った。はっと何かに気づいたようにポケットに手を突っ込み、紙を取り出した。
駅に入る前にココがイプに渡したものだ。
幾重にも折り畳まれた中に書かれていたのは一言。

<フォンを頼んだぞ>

†††

さまよう羊のように5.0

ココ達は行く当ても無かったのでとりあえずイプの家に戻った。イプはココ達の姿を見ていつものにこやかな顔からはとうてい想像できないような驚きの表情を浮かべた。
だが、ナッツの姿が無いことがわかると、イプはココ達の顔色をしばらくうかがい、その表情をまた一転させて悲しみに変えた。目を見る間に赤くし、涙がこぼれかけた。イプの涙を見る前にココは中へ入った。

各自が思い思いの場所に座り込んだ。よほど疲れたのだろう、フォンは床にほとんど崩れるように座りこんだ。シャーミラは椅子に座った。だが背もたれは使っていない。目は一転を凝視したまま動いていない。少しでも気を抜くと死んでしまう、といわんばかりの格好のようにココには思われた。
ココは椅子にどっかりと座った。これは疲れたからだ。単純なココらしいといえばらしい。
イプは洗面所に向かった。水を顔にかける音が何度かした。他の音はしなかった。
そのまま誰も何も言わない時間が続いた。

†††

椅子に座ったまま、ココは考えている。

今まではどこかナッツを頼りにしきっているところがあった。
ナッツが作戦を立てているのだから大丈夫だろう。自分はなにも考えずただ従っていればいいだろう。
そう、心のどこかで思っていた。
自覚は無い、ふりをしていた。ちゃんと、ちゃんとわかっていた。しかし、考えることを怠けてしまった。

だが、もう怠けていられない。
ナッツはもうここにいないのだ。マフィアに、敵に捕まってしまった。
作戦を立てていた指揮官はもういない。
ならば誰かが代わりを勤めなければならない。
やるしかない。

ココは覚悟を決めた。

†††

なぜ。
なぜ、ナッツが「『貫通線』に乗れ」と言ったのか。
いや、「大使館に行け」と言わなかったのか。

理由は二つある。
一つはそもそも少し遠い。イプの家からナッツの家までの距離よりも大分遠く、かつ、交通の便が悪いからだ。少なくとも外国人観光客がすんなりと行ける場所には無かった。ナッツとしては一旦自分の家に匿い、落ち着いてから大使館に向かわせるつもりであった。
二つ目。ナッツはココが荷物を置き忘れた、と聞いてココの母国がばれるような何らかの情報が知られてしまった、と考えた。実際、その通りであり、マフィアはココの母国の大使館へのルートを貫通線以上に厳重に張っていた。

以上がナッツがあのような発言をした理由である。
ようやくこのことをココは理解した。

†††

ココは椅子に腰掛けたままじいっと動かないでいる。考えているのだ。さっきのことを、これからのことを。
さっきのナッツの行動は何だったのか?
おそらくはココ、フォン、シャーミラの三人に何らかの危険が迫ったのだろう。そうでなければナッツがあんなことをするはずがない。最優先すべきはフォンの安否なのだ。他の要因は考えにくい。
やはり、ばれたのだろう。おそらくはココの正体が知られたのだ。ココだけが唯一の外国人。ばれるとしたらココだろう。
ならば、貫通線はもう使えない。ココの顔を見た奴がいる可能性が高い。
ではどうする?
そもそも目的地はどこだ?またナッツの家を目指すべきなのか?

ナッツが捕まった今、彼の自宅に戻ることなどできない。ナッツが簡単に口を割るとも思えないが、割らないで耐え抜く、というのも同様に想像し難かった。しばらくするとナッツも口を割ってしまうだろう。マフィアの拷問がどの程度のものか知らないが、あまり悠長に構えて入られないと考えたほうがよいだろう。

当初の目的地が駄目となれば次の目的地だ。
それは・・・・・・。

<俺は大使館を目指すべきだと思う>
ココは顔を上げて、しかし誰に向けてかは自身さえわからずに英語で言った。ひょっとすると自分に言ったのかもしれない。
シャーミラとフォンがこちらを見た。シャーミラは一瞬だけ非常に儚い表情だったが、すぐに目に光を戻した。フォンはとても疲れているように見える。休ませたほうがいいかもしれない。

<なぜだい?>
と洗面所から戻っってきたイプがココの後ろから声をかけた。見てみると顔を洗ったからか少しさっぱりとした顔をしている。
<その前に、いいかな?・・・・・・フォン、今のうちに隣の部屋で休みなさい>
フォンは少し迷った様子だったが、首を振って起き直った。彼女の目に
も光が戻ったようだ。
イプがココの正面に椅子を持ってきて腰掛けた。
ココはイプに向き直った。

<まず、>イプが言う。
<何があったのか説明してくれ>

ココは事の顛末を自身の英語の能力の限り説明した。途中、シャーミラとフォンも加勢したが半分以上はココが一人で話した。

<・・・・・・それでどうして大使館なんだ?>
話を聞き終えてイプが改めて尋ねる。
<・・・・・・もうそこしか行くところが無い>
ココは続ける。そもそもナッツも大使館を最終的な目的地に考えていたはずである、だからナッツが捕まり、彼の家を目的地とすることは危険となった今、目的地を大使館へと変更するべきだと。

<いいんじゃないかしら>
今までほとんど黙って聞いていたシャーミラが口を開いた。
<もう本当に行くところが無いもの・・・・・・。それに早く移動したほうがいいと思うの。・・・・・・夫が、ここのことを話してしまう、かもしれない
、から>
シャーミラはほとんど泣き出しそうな顔で、言葉を切りながら、しかし懸命に涙をこらえて、自分の思うところを述べた。

それを見てフォンは顔を背けた。

†††

さまよう羊のように4.0

駅に着いた。切符はナッツがすでに買っていたものを使うことになっており、全員が切符を持っていた。人が最も多くなる時間だけあって、先ほどの道以上の混み具合だった。おしあいへしあい、ようやく進める、と言った程度だ。切符を買うだけで一体何分かかるのか分からない。そもそも切符を買う行列の最後尾が分からない。
しかも今日は券売機の所にスーツの男たちが立っているのだった。切符を買う乗客達は皆等しくスーツの鋭い視線にさらされることになった。行列が伸びる原因の一端は確実に彼らにもあった。
スーツの男はマフィアである。他にもよく見渡せる駅の二階から乗客を見下ろす者などが駅の至る所にいた。
元来カンの鋭いナッツはこの駅がマークされていることは予測していた。それでもこの列車を使わなければこの包囲網から逃れることはできないこともわかっていた。

駅の入り口から乗車地点まで数十メートル。人はやはりかなり多く、迷子になる子供はさぞ多いだろうと思わされる。こんな人混みの中で一定の距離を保って付いていくのは非常に困難である。
結果、ナッツは「三人」から少し遅れだしていた。そして徐々に非常事態に対処するのが難しいほどに距離が開き始めていた。
そのためナッツは平静を装いつつ「三人」を必死の思いで追いかけていたのだが、「三人」が改札にたどり着いた時にナッツはとんでもないものを見てしまった。
「三人」とナッツは駅の入り口から改札まで真っ直ぐに、なるべく普通に歩いて向かっていたのだが、その時にナッツは左右のマフィアと思しき人物に目星をつけて警戒することもした
あまり見つめては逆にナッツが怪しまれてしまうのでちらちらと。周りの人間がそうしているように。

そうしてナッツは最大限に気を張って警戒していた。
ふと彼が上を見上げるともう一人マフィアがいた。二階から一階を見下ろしている奴だ。
この駅は一階がおそろしく混雑するので二階も増設したことがある。その時にできた、宙に浮かぶ廊下、みたいな所の一つに男が一人いた。
封鎖でもしているのか廊下には他の人はいない。
とにかくその廊下から見下ろしている男もマフィアである訳だが、ナッツはそれほど警戒していなかった。

今回の作戦の失敗条件は「マフィアに「親子連れ」の変装を見抜かれる」ことだが、これはココ、あるいはフォンの顔を見てマフィアが気づく、ということである。
これに関してナッツ達は「親子連れ」にしてそもそもマークされないようにする、という作戦を立てた。
これが破られるとすれば「ココとフォンが近くから見られてばれる」とナッツは思っていたので(それでも破られるとは思っていなかった)、ナッツは二階にいる人間は全くと言っていいほど注意を払っていなかった。

そのためナッツが上を見上げたのは完全に偶然で、直後に彼にどうして上を見たのか、と問えば「わからない」という答えが返ってくるに違いのないものであった。

とにかく彼が上を見上げたとき、二階にいたマフィアが「親子連れ」を見た、ようにナッツには見えた。続いて、その男の目が大きく見開かれるのも見た。

一瞬で彼の脳裏におそらくは無意識によぎった思考は以下のようなものだった。
あいつはどこを見ている?ココ達か?違うのか?ココ達を見ているのなら今すぐに対処しなければならない。でも違ったら?対処してしまったら余計な注目を浴びてココ達が逆に捕まってしまうかもしれない。だがしかし、偶然にココ達の周りに目をやるだろうか?

およそここまで考えたときに例の男はすう、と息を吸い込んだ。次の瞬間には何かを叫ぶだろう。
ナッツの思考が停止する。
ナッツはポケットに手を突っ込み、中にあった物をつかんで手を高々と挙げた。
周りの人間はまず、この狭苦しい空間で突如挙手をした男に眉をひそめ、次にその手に握られた物を視界におさめて、凍り付いた。幸運なことに二階の男も叫ぶ前に一瞬凍り付いた。
ナッツが手にしていたのは拳銃。数日前にココが警官と取っ組み合いをして奪ったものだ。

ナッツがそれを上へ挙げたときにはもう引き金に指をかけていた。撃鉄も下ろしてある。

銃を挙げながらナッツは前を歩くココとフォン、妻のシャーミラ、彼女が抱いている娘テトを見た。正確には人が多すぎて見えなかったので、心に思い描いた、という方が正しい。
彼は目をつぶり、再び開き、銃を見上げた。

そして彼はその引き金を三回引いた。駅に銃声が低く、大きく、これ以上無いほど惨めに響きわたった。

***

何が起こったのか全く理解できなかった。突然背後で銃声がした。そうでなくともいつマフィアの連中にばれるんじゃないかとひやひやしていた所にいきなり三発の銃声。俺でなくとも肝がつぶれるだろう。
振り向けばマフィアが銃をこちらに向けているのかもしれない、という考えがちらついて怖かったが振り向いた。残念ながら子供みたいなことばかり言ってはいられないのだ。
後ろを振り向くと銃を天に向けたナッツが立っていた。それを呆然と見つめていたシャーミラの顔はよく覚えている。覚えているのだが、角度的にどうやって見たのかは思い出せない。すぐ隣にいたはずなので横顔さえ見えないはずだった。ひょっとすると後付けの記憶かもしれない。
ともかく、周りが銃を発砲した危険人物からわずかでも離れようと押し合っているのに、俺たちは三人とも残らずナッツから目が離せなくなった。
それでも体は押し寄せる人に連れて行かれる。何を考えていたのか今では思い出せないが、おそらくはナッツの元へ行こうとしたんだと思う。
俺が中途半端に錯乱していた時、一番最初に我に返ったというか声の出せる状態になったのはシャーミラだった。それが良いのか、というとわからない。彼女は叫びながら全力で人混みの列をかき分け始めたからだ。
しかし、それで俺の目が覚めた。俺にしがみついていたらしいフォンをかばいつつ人をかき分けて少し離れてしまったシャーミラの所へたどり着く。
俺は彼女の正面から、何事か叫びまくっている彼女に、これまた叫んで説得しようとした。冷静に考えれば何やってるのかわからないし、下手をすれば笑える光景だ。
しかし、状況が状況だった。周囲では人が押し合い、走り、転び、踏まれ、子供が泣き、大人が叫んでいた。俺はまだかなり混乱してたいたし、シャーミラはほとんど正気を失っていた。シャーミラの腕の中のテトはこのぐちゃぐちゃの中で大声で泣いていた。

多分この場で冷静だったのはフォンだけだっただろうと思う。
彼女はこの阿鼻叫喚の中叫びもせずただじっと俺の体にしがみついていた。最も冷静に、しかし最も恐怖を正確に感じ取っていたのだろう。
俺がシャーミラに怒鳴っていたとき、フォンは俺によじ登って、シャーミラの横っ面をはたいた。

シャーミラは止まった。時間が少し止まって俺も動けなかった。

シャーミラが目を閉じ、開ける。開いた瞳はしっかりと俺とフォンをとらえていた。その瞳の光の力は正直怖いほどだった。
さっきの目を閉じて開けるのはナッツがよくやっていた仕草だ。似たもの夫婦なんだな、と思った。

シャーミラは今度は踵を返し、ナッツとは反対側、人混みの流れる方向へと進んだ。離れないように二人を俺が後ろから追いかけ、押されないようにした。
もはや、意味の無くなった改札を越え、ホームへ出る。
人混みの大部分はなんとホームから線路へとなだれ込み、そこから外へ逃げ出していた。それを見て、今日列車には乗れないと悟った。
駅員らしき人物が誘導している。が、だれも目にも留めない、目に入らない。誘導を無視して線路へ降りていく。
人混みに乗って、線路へ降りることにした。シャーミラとフォンにも合図する。列車が来ないかは正直かなり心配だったと思うが、駅員が連絡を入れて止めているはずだ、と判断して降りた。
今思えばかなり判断力が鈍っていたようだ。

線路に下りて人混みの流れのまま、数メートルのレンガ造りのトンネルを抜けて外へ出た。
光が視界にあふれる。だが、心には闇が広がっていった。

駅の入り口にスーツ姿の男を乗せた車が何台も押し掛けるのを視界の端でとらえながら、俺たちは周りの人間に従って走って逃げた。

***