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さまよう羊のように 3.0


「「貫通線」に乗れ」
「カンツウセン?」
ココには耳覚えが無かった。
「この国を南北に貫く列車だ。お前が乗るはずだった列車だよ」
「あー、ああ、あれか」
耳覚えはあったようだ。ナッツが確か前に言っていた気がした。確か。
「あれに乗れ」
「でも予約切符は失くしちまったし、買う金も残ってないぜ」
「ああ?なんで無いんだ?」
「でかい鞄に入れてたんだが、フォンを助けるときに置いてきちまった」
「・・・・・・金もないのか」
「ああ。無い」
ココの現在の所持金は食事三回分といったところだった。
「・・・・・・やはり俺がそっちへ行こう」出し抜けにナッツが言う。
「何?」
「電話じゃ正直アドバイスに限界がある。俺も合流するとしよう」
普段ならば。
他人の助けを借りることはココの意地が許さなかった。ココは何よりも他人に迷惑を掛けることを極端に嫌っていた。
いや、「借り」を作るのが嫌だっただけなのかもしれない。
ともかく、それは親友に対しても同じであり、家族に対しても同じだった。大げさに言えば、他人の手を借りるくらいなら死んだ方がましだと思っていた。

実際、今回の件でもココ一人だけの問題だったならばココはナッツへ助けを求めることはあったかもしれないが、少なくとも「助けてやろう」と言ってきた相手に助けてもらうなんてありえなかった。
例え、自分が死ぬことになってもだ。彼の境遇に特別なものがあるわけではない。彼が育つにつれて自然とできあがった性格だ。

他人に頼らない。これがココの信条だった。

ところが、今回はココだけの問題ではなかった。フォンもいたのである。おまけに命がかかっている。
このことがココの決断をより合理的なものへと変えていた。
ホームレスに助けを求めたのもそうだし、警察を頼ったのもそう。
だから、

「頼む」

ココはナッツにほとんど初めてこの言葉を口にした。
「わかった」ナッツもそれに気づいたがあえてこの単純な返事をした。
こういう一瞬のやりとりの中にも友としてのあり方が見えるものだ。

「お前はいつ来れるんだ?」
「そうだな・・・・・・。三日後、いや明後日にはそちらに行けるだろう」
「それまでかくれんぼか・・・・・・」
「いや、俺の友人がその町にいたはずだ。事情を話して協力させよう」
「それは・・・・・・」
言い終わらないうちに唐突に電話が切れた。
一度他人に頼るとどんどん頼ってしまうな。ココは思いながら切れた電話を眺める。
他人を頼るのもありかな。

***

電池残量を確認してもうあまり残っていないことに気づく。バッテリーを後で買わなければ。
ふとフォンを見るとこちらを見つめていた。どうしてかと思ったが、言葉が分からないのだ、当然だろう。言葉でコミュニケーションができないから相手の表情から相手の考えを読みとるしかないのだ。
見ると不安な気持ちを押し殺そうとしているようだが、小刻みに震えている。よく考えれば今までよく耐えていたと思う。マフィアに追われるなんて子供にはかなり神経をすり減らすことだろう。そもそも大人であるココでさえ自分が正気かというとちょっと、いやかなり自信がない。
そこまで考えてそんなことはどうでもいいのだとココは思う。
とりあえずこの子を落ち着かせてあげることが先だろう。
ココはフォンの頭を撫でてやった。

***

電話がかかってきた。ナッツからだった。
「もしもし、ナッツだ。無事か?」
「ああ。どうだった?」
「匿ってくれるそうだ。地図はあるか?」
「ああ、あるぞ」
ショルダーバッグから地図を取り出す。フォンも手伝って、苦労の末にナッツは協力してくれる友人の家をココに教えることに成功した。
「よし、これで行ける」とココ。
ココ達が今いるところから徒歩で一時間ほど。町の広さを考えると奇跡的な近さだった。
「一つ言っておくことがある」
ナッツが低い声で言う。
「フォンがマフィアに捕まっていたのは・・・・・・その子の両親がその子を売ったからだ」
ココは絶句した。
「・・・・・・その子にはもうお前しかいないんだ。さっきの覚悟忘れんなよ」
ココが返事をする前にナッツは電話を切った。
ナッツが声を低くするとろくな話じゃないな、とココは皮肉っぽく呟いた。その呟きをみたのはフォンだけだった。

***

協力してくれる友人の家は徒歩で一時間。なんだか外を出歩くのが今までの感覚と違う、と感じた。子供の頃に近所に何かの野生の動物が出没したときの感じに似ていた。ただ緊張感の重みが圧倒的に違った。

***

ナッツの友人なる人はぱっと見て良い人だとわかるタイプだった。こう、何というかどんなことでも笑い飛ばしてしまいそうという顔だ。どんな顔だ。
この人はイプと言うそうだ。ココはさっきナッツに教えてもらっていた。
「ワタシガナッツヲユウジンナココ」
ナッツに教えてもらった言葉をメモした紙を見ながらたどたどしくココは自己紹介した。いや本人は何を言ったのか分からないのだが。
イプはにこりと人の良さそうな顔で頷き、向き直り英語を話せるかを英語で聞いてきた。はずだ。
「uh....,a little (あー・・・・・・、少し)」
ココはやっとそう返す。散歩とは違って、これはこれで緊張した。
隣でフォンがくすくす笑う。この野郎、いや、野郎じゃないのか、とココは苦々しい顔で思う。
ココがフォンに、いー、という顔をしてやると更に面白かったようでフォンは吹き出した。
ココはまだ少し悔しい、みたいなふりをしながら、フォンが初めて笑ったことをとても嬉しく思った。
やっと笑った、と。
イプはココとフォンを部屋の中へと招いた。

***

ココは現地語は話せない。英語も少しだけだ。
フォンは現地語しか話せない。
イプは現地語と英語の両方を話せる。
そうなると自然イプが通訳代わりになり、ココとフォンの意志疎通を手伝った。フォンが伝えた内容は既にナッツがココに教えたことだったり、既にココが推測していたことがほとんどだった。ココからフォンへは特に何も無かった。というよりも話せなかった。頑張れ、とか、そういった類の言葉しか知らなかった。辞書はあるにはあるがココの母語に対応してあるわけではないので実質使いようがなかった。
そうしてやがてもう伝える事柄がなくなるとイプとフォンが話し込むようになりココは部屋の隅でぼうっとするしかなかった。時々イプの持つ英語の本を読んだが理解できる部分の方が少なかった。イプとフォンの笑い声が異様に大きく聞こえた。
ココは正直なところ疎外感だの嫉妬だの子供じみた感情を抱いていたがイプが目の前にトランプを持ってきたときに全てを忘れてしまった。
結局彼らが寝付いたのは夜がかなり深くなってからのことだった。

***

イプとフォンが眠ってしまってもココは眠れなかった。昔から眠るのは苦手だった。考えすぎてしまうのだ。
その夜にココが思ったことを整理して述べることは難しい。それでも不完全ながらも記述することには意義があるだろう。

ココはイプに対して言い表せないほどの感謝と罪悪感を感じていた。
先程述べたようにココは他人に頼ることを是としない人間だった。このことは彼が今まで人に頼らずに生きてこられたと思っていることを意味する。つまり、彼には能力があり、能力以上のことに出くわしたことのない、人の恩を忘れる無神経な子供だった。
初めて意識的に人に助けを求めたことでようやくココはそのことを自覚した。それは今まで自分を貫いてきた美徳をただの誤りと認める行為だった。
もしもココが一人だったならば新しい考えが頭をもたげて独りよがりな考えを助け起こしたかもしれない。
しかし、何度も言ってきたことだが、ココは独りではなかった。ココにはフォンがいた。ココが助けたフォンはココだけではなく、ナッツやイプの力を必要としていた。本人がどう思っているかに関わらず。
そうしてココは今まで自分を支えてきてくれたであろう人々を想った。両親、友人、イプ、ナッツ、その他様々な人々の顔が浮かんできた。

俺はこの人々に感謝の言葉を伝えることができるだろうか?


***

翌日ココが目を覚ますとイプもフォンも既に起きていて朝食を食べていた。夜更かしをし過ぎたようだ。寝起きの顔を見てフォンはけたけたと笑っていた。人の顔を見てよく笑う奴だ、とココは思った。
ナッツから電話がかかってくる。これでイプとココはほぼ完全な意志を伝えあうことができた。
ココとフォンが外に出るのは危険なので代わりにイプが買い物に行ってくれることになった。今日は平日だがイプの仕事はどうなっているのだろう?結局彼は言わなかったがおそらくは「病欠」だったのだろう。本当に頭が上がらない。
イプが買い物に行っている間、ココとフォンは昨日のカードゲームをやっていた。テレビも点いていたが、言葉がわからないのでココには何の意味もなかった。それでも気は払っていた。もしかしたら今の状況が報道されているかもしれない。しかし、そのような報道はイプが帰ってくるまでに流れることはなかった。
イプはココの携帯のバッテリーを買ってきてくれていた。あとはココとフォンの着替え、帽子・サングラス、等である。中にはフォンのためと思われる催涙スプレーも含まれていた。
昼食をすませる。メニューは炒めた飯だった。味はなかなか。
その後は昼寝とテレビゲームをして過ごした。
日が傾いてきて、夕方になった。
その頃に電話がかかってきた。ナッツだった。
どうやら明日の朝に到着するらしい。荷物をまとめておけ、ということだった。

***

その日の夜は早めに眠った。トランプも無しだ。フォンは残念がったが、翌日のことを考えると夜更かしは出来なかった。
しかしココは起きていた。前日同様眠れなかった。
フォンが隣で眠っている。三人は左からイプ、ココ、フォンの順に川の字になって眠っていた。フォンは完全な無防備に見えたが、よく見ると不安そうな顔をしていた。ココは袖に妙な感触があることに気づいた。確かめるとフォンが袖を握ったまま眠っていた。まるで逃がすものかとでも言わんばかりだった。
それもそうか、とココは思う。
両親に売られて、マフィアに捕まって、商売道具にされかけて、逃げて、追われて、挙げ句警察さえ助けてくれないのだ。
これではこの子にはココ達以外に味方など一人としていない、ということになる。フォンとしては世の中の人間が全員敵になったようにかんじているかもしれない。
フォンの寝顔を見つめながら、ココの心に雑多な感情が浮かんでは消え、浮かんでは消えた。その胸の内の想いとは裏腹に恐ろしいほどに冷たい目をしていた。
もしも、フォンを裏切った、あるいは追いかける者が今ココの目の前に現れればココは正気を保ってはいられなかっただろう。
ココはわざわざ明日のために新しく覚悟を決める必要はなかった。



***

今のうちにココとナッツの昔話でもしよう。
二人は小さい頃からずっと親友だった。
ココは小さい頃からぼんやりふわふわしたヤツで、ナッツは逆にしっかりしていた。小さい頃からすでに漢気もあった。
ナッツと友達になりたがるヤツは多かったし、ナッツもそこそこの対応はしていたが親友と呼べるのはココだけだった。小さいとはいえココもずっと不思議に思っていた。ただ、それを聞くとナッツがいなくなってしまうような気がして理由を聞こうとは思わなかった。
何年かしてようやくココがそのことについて聞くと、
「ちゃんと対等の人間として俺を見ているのはお前だけだった。・・・・・・他のヤツは少し・・・・・・違ってたよ」
と言った。ナッツがココをどう思っているかを口にしたのはこれが最初で最後だった。

ちなみにあだ名は自分たちで作ったものではない。ナッツはピーナッツ、ココはナタデココ好きと知った別の友人が二人をコンビ「ココナッツ」と呼んだことに起因する。

彼らがやってきたことをいちいち挙げるようなことはしないが、説明のために彼らの悪行の中でも最も派手なものの一つを取り上げるとしよう。

***

「知ってるか?爆弾って簡単に作れるんだぜ」
そう言ったのはナッツだった。
ココとナッツが共に八歳の時だった。
ナッツがインターネットで爆弾の作り方とやらを調べたらしかった。こういったいかにも子供らしいというか考え無しな行為は普段はココの担当だったが今回は違った。そもそもココはインターネットは使わない。
両親が使わせなかった。
ナッツもいつもはすました顔でココの思いついたいたずらをあきれ顔で眺めているのだが、今度は少しレベルの違うものということもあってかなり楽しそうだった。

サイトの作り方を参考に、材料をそろえ、機材を集め、入れ物を作り、本体を調合し、完成させた。
爆弾を人のいない田舎の、人のいない山奥の、人のいない更地まで運んだ。途中で電車にも乗った。運んでいる最中に過って・・・・・・などということは性質上あり得ない。爆弾は途中までしかつくっていなかった。運ぶときの安全のためだ。

そいつを更地の真ん中に置く。
最後に仕上げの手を加えて、起爆する。
爆弾は意図したとおりの役目を果たした。

ココ、ナッツともにその瞬間に二人で手を叩き合った記憶がある。
爆弾なんてもの作るのは悪いことだ。多分、法律にも反している。犯罪だ。そんなことはわかっていた。だからこそそれが楽しかった。
できれば、学校のクラスメートや先生、両親にも見せてやりたかった。
これは俺たちがやったことなんだぞ。
そう言ってやりたかった。

***

どうしてこんな話をしたかというとこの夢をココが見たからだった。
三日目の朝にココが起きると鮮明に夢の記憶が残っていた。この夢をココは懐かしいと感じた。次に罪悪感。今では幼い頃自分が軽蔑していた人たちのことが、大人が理解できた。




***



いきなりだがタームという男について語ろう。彼は実直という言葉の実によく似合う男だ。無口で、酒は飲まず、煙草も吸わなかった。一人暮らしをし、鶏が鳴く位の朝早くに起き、ある種の勤務先というやつに誰よりも早く着いて、黙々と様々な作業をしていた。彼は目上の者にも目下の者にも適切に対応した。
その組織の中では無くてはならない存在であった。それは地位的にも、実質的にも、である。何か問題が発生すればその問題の半分以上が彼の目を通ることとなった。重要な案件のほとんどに彼は関わった。

彼はマフィアである。
彼は正にこの物語のきっかけを作った組の一員だった。つまり、フォンを売り物にしようとし、その途中で逃げられてしまったのが彼らだった。組織に生じた重要な問題の大半はタームの目を通る。今回の件も例外ではない。
「兄貴、すみません。へまをやらかしました」こう言ったのは弟分の中で下っ端の面倒を見ている奴だった。
「どうした。何があった」タームは机に座って目を上げずに聞く。
「「商品」の一人が逃げ出しました」弟分が申し訳なさそうに言う。
「三日以内に捕まえろ。それ以内に見つからなければ打ち切れ。それと逃がした奴の名前を後でライに伝えておけ」
やはり書類から目を離さずに言った。
「それが・・・・・・」
「なんだ」
「その娘は旅行者らしき男と逃げているんです」
「何?」ここで初めてタームは顔を上げた。
「逃げた娘の逃亡を助けた男がいるのです。そいつは旅行鞄を置いていきました」
「その男と娘との関係は?」
「偶然会っただけのようです」
タームは手を顎に当てて少し考え込み、
「その男を最優先で捕まえろ。娘は逃がしてもいい」と言い、書類に目を戻した。
「・・・・・・娘はいいので?」弟分はおそるおそる尋ねる。
「優先順位の話だ。当然娘も捕まえろ」と顔を上げずに言い、手で出ていけ、と合図した。
弟分は一礼して出ていった。
タームはこめかみに手を当てて考えていた。
逃げたのが小娘一人であれば話は簡単だ。ただ捕まえさえすればいい。もし捕まえられなくともただの小娘だ。何をしようとも後で握りつぶせばいい。
だが旅行者つまり国外の人間ともなれば話は別だ。もしもその男が国外でこの話をしたなら厄介なことになる。

「ライは居るか?」タームは部屋の外の男に呼びかけた。
「はい」ライが部屋に入る。
「地元の警察に根回ししとけ。後、逃がした連中に適当な処分を与えておいてくれ」
「わかりました」

***

一日経っても「商品」と旅行者が捕まらないのでタームは新しい指示を出した。
最後に「商品」が目撃されたのは交番の近くでだった。「友人」の警官が足を撃たれ、部下は頭を殴られた。それ以来何の情報もなかった。
この知らせを聞いたとき、正直タームは驚いた。ただの一般人の二人連れ程度に考えていたが、考えを改めた方がいいと思い始めていた。
しかし同時に旅行者がこれで警察に訴えようとすることは無くなった、とも思った。あちら側からすればもう一度捕まるリスクを犯したくないはずだ。
さて、一日経ってあいつらは今どこにいるのか?
まだこの町にいるのか?
いないとすればどこへ?どうやって?

最終的にタームが出した結論は主要な交通機関に部下を配置させることだった。
つまりローラー作戦である。
部下の数は多かった。彼が部下に張らせた場所の中には当然、ココ達が行く予定の貫通線の駅も含まれていた。大きな駅、列車なので部下達の数が最も多い場所の一つだった。
ではココ達がとった作戦は失敗だったのか?イプの家にあと何日かいれば危機は去ったのだろうか。
答えは否、だ。タームは「旅行者」が「商品」を連れていると知った時点で捜索の期間を一ヶ月に延長していた。その間は部下が虱潰しに探し回るのでフォンが逃げた場所からほど近いイプの家ではすぐに見つかってしまっただろう。
他のどの手段を用いてもココ達が逃げきるためには少なくとも一度は追っ手の目の前を通り抜ける必要があったのだ。


***

三日目。ナッツがやってくる朝が来た。ナッツは早朝に着く予定だった。およそ鶏が鳴き出す時間と行ったところか。駅からバスでイプの家、つまりココとフォンの所へ来て、昼の人が多い時間になったらナッツの家へとんぼ返りする予定であった。
ココとフォンはナッツが来る少し前に起き出して身支度を整えていた。といっても二人とも元々の荷物よりイプが買って来てくれた物のほうが多かったのだが。
チャイムが鳴る。全員ナッツが来たのだと思ったが一応ココとフォンは逃げる準備と隠れる用意をした。前者は相手がマフィアだったとき、後者は関係ない人だったときのためだ。見られないよう用心するに越したことは無いだろう。
案の定チャイムを鳴らしたのはナッツだった。ナッツはまずイプとハグし、ココとハイタッチし、帽子を脱いでフォンと握手した。
「遅れて悪かったな」とココに、次に現地語でイプとフォンに同じことを言った。
そしてナッツの後にドアから入ってきたのは赤ん坊を抱えたナッツの妻、シャーミラだった。

***
なぜシャーミラがいるのか?
その話は一日目の夜にさかのぼる。
「三日ほど留守にするぞ」会社から帰って妻と夕食を食べ始めたときにナッツは妻にそう告げた。
「あら、どうして?明日にはあなたのご友人が来られるのでしょう?」シャーミラが不思議そうな顔で聞く。
「あいつが向こうでトラブルをこしらえてな。迎えに行くようなもんだ」とナッツは妻の作ったスープを見つめながら言う。
「イプさんには頼めないの?」
「もう頼んである。それでも俺が行かないとダメなんだ」
ナッツは上の空だった。今もココをどうやって逃がすかを考え続けていた。そしてナイフを握ったまま肉料理を眺めていたのだ。これがまずかった。ナッツの妻シャーミラは夫の異変に気づいた。
「何があったの?」先ほどまでとは違って少し声が険しかった。
「何でもないことだよ」
ナッツはココの逃走計画は練っていたが、妻への言い訳はそんなに考えていなかった。
シャーミラは夫の夕食をさっと取り上げた。
「何をするんだ」けげんな顔でナッツが聞く。妻に対しては優しかったのでこんな調子だが、もしも犯人がココだったら拳骨が飛んでいる。元々短気なのだ。
「あなたがしゃべるまでおあずけよ」シャーミラは夫の夕食を持ったまま言う。しゃべれば返す、ということだ。
当然、しゃべらずともその気になれば夕食を取り返すことができるのだが、ナッツはむっとした顔で
「わかった。今日は夕食は無しだ」
と言って席を立っただけだった。

その時点でできていた逃走計画に必要な物を準備してナッツは風呂に入った。二番風呂だった。一番風呂はシャーミラと娘のテトが先に入っていた。
風呂から上がると娘と妻はもう眠ってしまっていた。ナッツはしばらく妻と娘の寝顔を見つめていたが、シャーミラが起きかけたので慌てて彼女たちを起こさないように静かにベッドに入り、眠りについた。

翌日ナッツは灰のフロックコートに縁のある黒帽子を被ってかなり早めに家を出た。重要なことがある時は彼はいつもそうする癖があった。朝の一番早い便の貫通線の一時間以上早くに到着していた。まあ、切符を買うのに時間がかかるので油断はできないのだが。ちなみにこの時に往復の切符をナッツ、ココ、フォンの分と万一の場合にイプの分も買っておいた。額はバカにならないが緊急時だ、仕方ない。

列車が来るまでベンチに腰掛けて売店で買った新聞を読んで時間をつぶす。相変わらずな記事ばかりだった。どこどこの工場で事故があった、とか、どこどこの国でだれだれが賞をもらった、とか、誘拐とか、殺人とか、どこぞの家の犬がどうした、とか。そんなことばかりだった。
新聞を畳んで脇に置き、ベンチに全体重をあずけるようにぐでっと座って深々とため息を吐き出した。ナッツは普段こんな座り方はしない。妻に注意されるからだ。
「とんでもねー厄介事に関わっちまったなー」
そう力なく他人事のようにぼやいてタバコとライターを取り出す。
ライターの火を起こす手が震えていた。それを冷たい目で眺めながら火をつけた。息を深く吸い、ふーっと長い息を吐いた。煙の味が口の中に広がる。
タバコも辞めてからずいぶん経つ。結婚してから禁煙し始め、娘が生まれてからは一切吸っていない。
そしてぼんやりと色々なことを考え始めた。

ココはもう自分のことを故郷に連絡しただろうか?あいつのことだ、どうせ誰にも連絡を入れていないに違いない。目の前の状況にしか目がいかなくなるからな。
イプには今度お礼をしないといけないな。何がいいだろう。やっぱり食い物かな。今度良い店でおごってやろう。
フォンという子はどんな子だろうか?どんな言葉をかけてあげるべきだろうか?
ココとフォンを助けられるだろうか?
無傷では難しいかもしれないな。誰かが何らかの「傷」を負うことになるだろう。問題はそれをいかにしてフォンへと向かないようにするかだろう。
ココは別にいいだろう。
・・・・・・無事に家族の元へと帰ることができるだろうか?自分が死んだらシャーミラとテトはどうなる?シャーミラも働いてはいるが稼ぎは少ない。とても母と子だけでやっていくことはできないだろう・・・・・・。
死にたくはないな・・・・・・。

ここでナッツは何かに気づき顔を動かし、タバコの灰をコートに落としてしまった。慌てて灰を払いながらナッツは思う。

そうか、俺は死にたくないのか。当たり前のことだが、妻と娘のために死にたくない、じゃなくて単純に死にたくないんだな。

ここまで考えてナッツはくくくと低く笑った。不気味な笑いだった。

この俺が死ぬことにビビるなんてな。今までそんなこと思いもしなかった。家族がいるから死にたくない、とは常々思っていたが、死への恐怖そのものをここまではっきりと感じたのは初めてだな。
今までの人生の中で死を考えてこなかったわけでもないし、死を実感したことがなかった訳でもない。
しかし、現にこれまでに味わったことのない死への恐怖を感じているということは、やはり、頭の中で漠と考えていただけに過ぎなかった、というわけだ。
ココと同じだな。ちょっと楽天的というか考えが甘いあたりが。あいつのそういうところも嫌いではないがな。あの性格だから道で出くわした他人を命がけで助けるなんてバカなマネができるのだろう。
そのバカな親友を助ける奴も相当なバカだが。

ナッツはもう一度深く息をを吸った。久しぶりの一本を存分に楽しむように。

・・・・・・ココも同じように悩んでいるだろうか?悩んでいても、悩んでいなくても一発ぶん殴ってやろう。何かそういう気分だ。
さて、下らないことを考えるのは後にして作戦を立てるか。

***

電車が来た。その列車はナッツには一体何に見えたのだろうか?
客車に乗り込み、座席に座る。座席は進行方向に対して垂直に何列も並んでいる。座って横を向けば楽に景色が見える。
ナッツが座席に座ってしばらくすると、列車の扉が閉まった。それとほとんど同時に隣の席に誰かが座った。
「あたしも付いていくわ」
その声を聞いてナッツはばっと振り向いた。声の主は麦藁帽をかぶり赤ん坊を抱えたシャーミラだった。

***

三日目である今日にナッツの家へ向かうにあたってココ、ナッツ、イプ、フォン、シャーミラの五人はナッツが立てていた作戦を確認しあった。
ナッツの家へ向かうのはココ、ナッツ、フォン、シャーミラの四人。当然と言えば当然だがイプは残る。最初から彼は部外者で巻き込まれた人だ。むしろここまでよく助けてくれた。
ココ、ナッツ、フォン、シャーミラの四人は人が最も多くなる十一時の列車に乗る。駅までは徒歩で行くことになった。バスには必ず一人はマフィアが乗っていることをナッツとシャーミラが道中確認していた。
マフィアはココ達は「旅行者の男」と「少女」の二人連れを追っている。だから、「親子三人」になって逃げることになった。「親子三人」はココ、シャーミラ、フォンの三人だ。それぞれアロハシャツ、ワンピース、帽子にシャツとジーパンを着て行く。地方に旅行か観光に出かける風を装い、フォンは男子に化ける。マフィアもフォンが男の子に化けるくらいは想定しているだろうが親子連れになれば大丈夫、とはナッツの言葉だ。今日は休日なのだ。ココはこの日に合わせて飛行機をとったのだから当然だが。
今日は休日。つまりは子連れが最も多いときなのだ。
ナッツは「会社員」として別行動をとり、非常時に対応することになった。
フォンは「男の子」になるために髪を切った。「男の子」になると聞いた時に本人から言い出したことであり、洗面所でシャーミラがフォンの髪を切った。
ココが前に警官から奪った銃は練習した経験のあるナッツが持つことになった。

その時点で決行まで残り三時間あった。

***

まずナッツがグレーのスーツの「会社員」で家を出、さらにその何分後かにココ、フォン、シャーミラは夫婦と男の子の「親子三人」が出発した。
ナッツは回り道をしてすぐに「親子」と合流した。といっても一緒に歩くわけではなく、当然十分に距離を取って前を歩き、マフィアがいないかどうかを斥候として確認する役目を果たしていた。
四人は次第に駅に近づいていき、やがて道は広く、人は多くなっていき、じきに最早身動きするのも難しいほどの混雑の中を進んでいくようになった。
そうなれば例えナッツがマフィアを認識したとしても「親子」が回避することは難しくなっていった。
それでも見つからなかったのはシャーミラがいたからだろう。彼女がいなければ「女の子連れの男」の図式を崩せなかった。その認識を突いたこの組み合わせはおそらくは満点だったろう。
マフィアたちの目の前を通り過ぎることはさすがに無かったが数メートルの距離を歩き、駅へと行進を続けた。
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